

弘法大師と千手寺
平安時代には弘法大師空海も千手寺に止宿され、その霊感に善女竜王が現れ大師の願いに応え香木を渡しました。
その香木で大師は千手観音菩薩を刻まれ寺の奥にお祀りされました。
今から千三百年ほど昔、笠置山の千手窟で修行をされていた役行者は不思議な神光に導かれて生駒山のこの地に辿り着きました。
その時、千手観音菩薩が諸々の神祇を従えて現れました。そしてこの地を拓いて寺院を建立することを懇願されました。これが千手寺の開創の伝説です。
このことから地域の名前を「神並村(こうなみむら)」と呼び、千手寺を「光堂(ひかりどう)」と称すこととなりました。
平安時代には弘法大師空海も千手寺に止宿され、その霊感に善女竜王が現れ大師の願いに応え香木を渡しました。
その香木で大師は千手観音菩薩を刻まれ寺の奥にお祀りされました。
その後、惟喬親王の乱によって堂宇が悉く兵火によって炎上しました。
千手観音像は自ら深野池に飛び込み難を逃れました。
在原業平が天皇陛下と難を逃れ当地に来られた時、池が光り千手観音像が姿を現しました。
天皇陛下は大層お喜びになり業平に命じて千手寺を中興されました。
この伝説から千手寺を「光堂(ひかりどう)」と称すこととなり、
また地域の名前を「神並村(こうなみむら)」と呼称するようになりました。
河内西国霊場とは、大阪府中部の河内地域を中心とした観音霊場です。
千手寺は第10番札所になります。
役行者霊跡札所とは、奈良吉野山、大峰山、葛城山を中心としながら近畿一円の役行者とゆかりのある36ヶ寺を巡る霊場です。
本堂裏に所在する弁天塚古墳は、6世紀後半に築かれた横穴式円墳です。
周辺には3群9基が古墳群を形成していたものと思われますが現存する唯一の遺構です。